カンボジアの近代史
1953~1970 | シハヌーク政権(カンボジア王国)王政で比較的平和な時代。やや反米的な外交 |
1970~1975 | ロン・ノル政権(クメール共和国)共和制。内戦の時代。アメリカの影響を受ける |
1975~1979 | ポル・ポト政権(民主カンボジア)共産制。独裁粛清の時代。中国の影響を受ける |
1979~1991 |
ヘン・サムリン(フン・セン)政権カンボジア人民共和国。ベトナム型社会主義から市場経済に国際的孤立の時代。 ベトナム、旧ソ連・東欧の影響を受けるカンボジア問題に関するパリ国際会議(’89年) 「カンボジア包括和平協定」をパリで調印(’91年) |
1992~1993 | 国連暫定行政機構(UNTAC)時代最高国民評議会(SNC)を置き変則的な国連管理体制 |
1992.6 | 4派(シハヌーク派、ソン・サン派、ヘン・サムリン派、ポル・ポト派)による武装・動員解除開始。ポル・ポト派は拒否 |
1992.9 | 日本の自衛隊プノンペンに到着 |
1993.4~5 | 国連ボランティア中田厚仁さん殺される総選挙、有権者460万人。投票率90% |
1993.9 | 憲法発布。シハヌーク国王即位。「カンボジア王国」誕生ラナリット第1首相とフン・セン第2首相の連合政権 |
1995 | ポル・ポト派投降相次ぐ |
1996.7 | フン・セン第2首相派がラナリット第1首相派を攻撃。ウン・フォト第1首相との新政権発足 |
1996.8 | 軍事裁判所がラナリット前首相に逮捕状 |
1998.1 | 日本政府はラナリット氏の選挙参加の保証など、4項目の打開策を提案 |
1998.4 | ポル・ポト氏死去 |
1998.7/9 | 総選挙。人民党が第1党となる選挙の不正などを訴えた反政府デモに対し治安部隊が発砲議員宣誓式、国会開会式がアンコールワットで開催 |
1998.11 | 人民党とフンシンペック党の連立政府が発足 |
LWS(Lutheran World Service)
LWS(Lutheran World Service/ルーテル世界連盟奉仕部)は、現在世界20余の国・地域で難民支援活動などを展開する一方で、国連のオブザーバーを務めるインターナショナル・NGOのひとつです。LWSカンボジアは、ポル・ポト政権崩壊後の1979年から今日までのカンボジアの歴史と重なります。難民キャンプから村づくりへ(食料の安定供給から農業開発へ、井戸水の確保から治水事業へ、地雷撤去から道路建設へ、医療活動からエイズ予防教育/保健活動へ等など)と至る包括的な支援活動を展開しています。わかちあいプロジェクトのカンボジアの小学校建設支援プロジェクトは、このようなIRDPs(Integrated Rural Development Projects/包括的地域開発プロジェクト)の一翼である子どもの教育活動にタイ・アップしています。
またLWSの特徴の一つは、LWSスタッフと村の人たちとの共同作業にあります。村にはVDC(Village Development Committee)という委員がって、村の人たちがそれを担っています。このVDCを中心とした村の人たちとLWSのスタッフとが、ひとつのプロジェクトを立ち上げ、実行するまでに話し合いを何度も繰り返しながら、お互いの役目を確認・分担して、IRDPsを形づくっています。今回のキャンパーも最終日に村の人たちの対話集会に参加させてもらい、それがどのようなものなのか直接体験することもできました。(宮本)
村での生活
ワークの進行状況
暑い乾期のなかで学校建設ワークは行なわれました。今回は学校の土台から造るという初期段階だったので、支柱の穴掘り、手作業でのコンクリートのブロック作りが主な作業となりました。空いた時間を見つけては村人達も手伝いに来てくれるので、私たちがワークに疲れ果てる前に村人と交流をしたりしての休憩をとることができました。今回現場を見てともに作業をした限りでは、まだこの村の学校建設完成までにはかなりの時間がかかりそうですが、建設スタッフたちはゆっくり休みながら、時には一つ一つ地道に作業を続けていて、その姿勢には頭が下がる思いがします。
村人とのミーティングにて | ||||||||||||||||
ワーク終了後、村人の人たちの意見を聞くミーティングが開かれました。その中で村人達が話してくれた意見を報告します。
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村人、子供たちの様子 | ||||||||||||||||
村で会う人々はみんな恥かしがり屋でシャイ。私たちの周りを1Mほど離れて囲み、興味津々な眼差しで見つめてくるものの、いざこちらから話し掛けると恥かしそうにうつむいてしまったり、目が合って微笑むと照れ笑いしながら物陰に隠れてしまったり。でもちょっと時間が経つと、彼らから挨拶してくれたり、話し掛けてきてくれたり、言葉は通じなくても打ち解けられた気がした。(通じたほうがいいに越した事はないのだけれど。)一見シャイな彼らは実は明るく陽気で、厳しい生活条件の中でも笑いを絶やさず生きていく強い心を持った人々。(田嶋) 村の生活は想像以上に貧しく、水はLWSが作ったたった一つの井戸が頼りでそこにボトルタンクを抱えた村人達が水を求めて集まってやって来ていた。電線などもなく夜になると村全体が暗闇に覆われほとんど月明かり頼りの生活である。闇の中での生活は危険が多く周囲には毒蛇や野犬などが存在しているがそれらを発見するのには難しく緊急を要する事態に陥る可能性も高い。またそのような事態になっても、近くに病院がなく生命の危機にさらされてしまうこともある。村人たちは今、水や電気、病院その他にも牛や舗装された道路など必要としているものは数多くあるが彼らの力だけで得ることは現状では難しい。だが豊な国に住む多くの人の力が結集すればこの村を安住の地へと変えることはそれほど難しいことではないだろう。(小森) |
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踊り | ||||||||||||||||
恥ずかしがり屋な村の人たちは、音楽が始まってもなかなか踊り出してくれなかったが、私たちが呆然としていると、身振り手振りで教えてくれた。日本の盆踊りのように円の中心に台を置き、その周りを歩きながら踊るのだ。印象的だったのは、アンコールワットのアプサラを思わせるような、優雅な手の動きだ。大人も子供も、男も女も上手にこなす。しかし私たちは、どうやっても周りで見ている人たちに笑われてしまうといった具合だった。それでもダンスは楽しく、夢中で踊った。パラパラを披露すると、みな好奇の目で眺めていた。(蔵本) |
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生活環境 | ||||||||||||||||
まずは宿泊地について。宮本さんより聞いていたのは、去年のワークキャンプと同じで、仮設の小屋だといわれました。しかし実際は違い、ワーク現場のとても近くにある木造二階建ての村人の住居を、私たちが滞在している期間LWSが借りて生活の拠点として学校づくりの作業、及び子供たちとの交流をしました。
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食事 | ||||||||||||||||
私たちのために、コックのスン・チャントルさんが作ってくれた食事は、たいていどれもおいしく、私たちの口に合うものが多かった。1週間が過ぎる頃には、初めは苦手だった、骨ばっかりの肉も、良く噛むことを覚え、おいしく食べれるようになっていた。そして、その肉をおいしくする秘訣が、黒胡椒とライム。黒胡椒に、ライムをかけたものを、肉につけると、本当においしい!カンボジアに行った際には、黒胡椒を買ってくることをお勧めする。また、フルーツも、そのものの甘味を感じられ、ほんとにおいしかった。たぶん、良く熟してから取るからじゃないかなぁ。一言で言えば、食べることが大好きな 私を、充分に満足させてくれる食事だった。(森本) |
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火事 | ||||||||||||||||
村では毎日必ずといっていいほど山火事を見た。子どもが遊びで火をつけてしま うらしい。行ったん火がつくと、乾期であるためあっという間に燃え広がる。そして村での滞在も半ばを過ぎた頃、それは文字通り「対岸の火事」ではなくなった。われわれが寝泊りする家のすぐ近くまで大火が迫ってきたのだ。私は子供たちと、バケツを手に走り回って「火消し」をした。自分のことは自分の力で守る!!バケツの水では到底キリがなかったが、それでも真っ赤な炎がジュッといって灰色の煙に変わっていく瞬間、自分の中で何かが変わっていった・・・とい うと大げさかな(笑) |
シェムリアップ
プノンペン
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